a lost child






 こんなに慌ただしい大晦日だというのに。
 流川が家出をしてきたらしい。
 荷物は背中に背負ったリュックひとつ。その中には愛用のバスケットボールしか入っていないはずの軽装で玄関前に突っ立ている。分かり にくいけれど、ちょっと困った顔で黙りこくっている彼の姿を見つけたとき仙道は、嬉しいというよりも厄介な匂いをかぎ取っていた。
「今度いつ来る?」
 帰り仕度をした流川にそう問うたのは昼過ぎのこと。場所も同じくここで、あしたは、と重ねると 「分かんね」と珍しく小さなくぐもった言葉が返った。ウインター杯も終わり、どの強豪校もひと時の休息に入る時季だ。 練習大好き流川が、31日から2日まである正月休みを無駄にするはずがないと思っていたから、そのお座なりな調子に驚いた。
「そっか。なんつっても、元日と誕生日だからな。あしたはお袋さんも張りきってるか」
「そんなんじゃねぇ」
 どんなご馳走が並ぼうが母親が懇願しようが、稀代の練習の鬼に正月も誕生日もない。知っているのにつまらない返しをしたら即座に否定された。 じゃあなんでと焦れて、一向に振り返ろうとしない流川の頭を、背後から長い腕で抱き込んで引き寄せ、
「昨日、一回しかエッチしなかったから怒ってるのかな〜」
 と、耳元でのささやきも混ぜ込んでみたら、肘てつを喰らわされた。
 続けて吐き出された死んじまえは、本音のような気がしないでもない。
「もう流川ったら、照れちゃってぇ」
 みぞおちを抑えつつのカラ元気満載な追い打ちも空しく、そのままバタンと勢いよく玄関扉を閉めて流川は帰っていった。特別機嫌が悪いわけ ではないけれど、いつまでもてめーの相手してられっかオーラを撒き散らしてのご帰還だ。それがまさかほんの数時間で 舞い戻ってくる理由が、ごめん悪かったとか、家に着いたら急に顔が見たくなったとか、離れたくないとか言って 抱きつく、恋人同士によくありがちなシチュを期待するほど、現実逃避していない。
 あのとき玄関先で――ポツリとひとり残されて芯から冷えた。一人暮らしも長い。孤独には慣れている。しかも寒がりの流川のために心地いい温度設定に保たれた部屋だ。 小さなマンションだけど密閉度が高いから隙間風なんか入ってこない。なのに、背中から入って肋骨の隙間から抜け出た寒気に、立っているだけで足元が グラつく衝動に駆られた仙道は、そのあとすぐにリビングにとって返し総ての窓を開け放った。
 一瞬にして後悔した。
 今年の年の瀬の寒風はいつにもまして骨身にしみる。
 けれど大いに震えた盛大なくしゃみひとつで、肩の力が抜けた気がした。
 なんだかんだ言っても体育会系気質。煮詰まったら動くに限る。きょうは暦もよろしく大晦日だ。やることはひとつしかない。ヤケ大掃除だ、 と仙道は行動を開始していまに至る。
「ただじゃ転ばないってこのことだよな」
 ひとり言が大きくたって構わない。むしゃくしゃも取れて、部屋も綺麗になったら一石二鳥、と袖をまくった。
 まずはハンディモップを片手にエアコン回りから片づけ、フィルターを水洗いし、照明器具のカバーを綺麗にしたころに なってようやく気分も落ち着いた。冷静さを取り戻すと作業効率もアップし、ひとつひとつを丁寧にこなしてゆく。リビングと寝室を持つ1DKの 城だけど窓サッシを空雑巾で拭き、掃除機をかけたころには夕闇が迫っていた。
 流川と別れたのがお昼過ぎだから三時間ほど掃除に没頭していたことになる。あとは、ざっとキッチン部分を綺麗にして、あしたの朝飯を買いに コンビニでも行くかと、一息を入れた。
 綺麗になった我が家を見渡してフローリングの床に座り込む。冷えきった室内もそのままで、暫くそのままでいた。働いた躰に寒風が吹きすさぶ。 どんなマゾヒズムだ、まったく。頭を冷やさなきゃならないことなんかなにもしてないのに。
 カチっと、時計の短針がひとつ動いた。
 時が進む。なのに想いがループする。正面切って聞かない流川が悪い。いや、その無精にかこつけて説明しない自分も悪い。その隙を与えてくれない もの流川だ。そしてただ、反応が怖くて尻込みしている自分が一番嘆かわしい。
「時間ないしな」
 差し迫るのは夕闇だけじゃない。
 なにより喉も渇いたし、いい加減寒いし。そろそろラストスパートをかけようと腰を上げたときだ。玄関のチャイムがなったのは。
 礼儀上の拘りがあるのか、まずチャイムを鳴らしてドアを開ける。その動作は合い鍵を持っている流川でしかあり得なかった。



 そしてきょう二度目の玄関先での対峙。
 表情筋の硬さから機嫌不機嫌の様子は常から読み取りにくい。いまは俯きがちで前髪が邪魔で余計に分かりにくい。けれど、背後からプスプスと 立ち上る怒気は隠しようがなかった。
 まず、胸に手を置く。いやいや、大丈夫。身に覚えはない。てか、掃除しかしてないじゃん。ほっとして変な笑顔を貼りつかせたら、敵はフンと鼻を 鳴らした。
 流川最大の悪い癖は、都合が悪くなると目を伏せて、その表情を読み取らせないことだと、常々仙道は思う。理由をこと細かに説明するでもなく、 察しろと無言の圧力をかけるでもなく、ただ表情を強張らせたままその場に立ち尽くす。近頃はよくこんな場面に出くわす。いや、させていると 言った方がいいのか。だからと言って仙道のせいでもない。
「ずいぶん早いお帰りだな」
 ことさら感情を押し殺したら、自分でも驚くくらいに冷たい声になった。あ、いや、と取り繕っても遅い。流川に顔を上げさせるには十分な 威力だったようだ。
「寒い。そこ、どけよ」
 押しかけておいて流川にお願いはない。それも相当機嫌が悪い。さっきの比ではない。オレがなにをしたと開き直りたい気分だ。
 それでも引かないのが流川の流川足る所以で。
「会話が成り立たないな。せめてなにがあったかくらいは説明したら?」
 と、高みから見下ろした。
「なんもねーよ」
 返る言葉は平坦過ぎて、なにかの怒りを押し隠そうとしてもミエミエだと言いたい。仙道は押しきろうとするその手を取った。漆黒の瞳が「あん だよ」と拒否を示す。言葉ではなく、想いを人に預けて押し黙るしたり顔を見ていたら、むしょうに突っかかりたい気分になった。
 すれ違う音を聞いた日のことは、はっきりと覚えている。
 節目節目に訪れる岐路の展望と喪失。年明け早々から転がり出す仙道の現実。流川が、いつまでたっても確かめないから仙道は、来年、 インハイ後に内定していた東京の大学に進学すると伝えただけだ。ひと月ほど前の夕食後。付けていたテレビの音は雑音でしかなく、行儀悪くテーブルに 両肘をついていた流川は興味なさそうに「そうか」と言った。
 傷ついたのか傷つけたのか、分からなかったりする。
 ただ、そのとき感じた底冷え感を互いが、いまもずっと引きずっているのだと思う。
 その瞬間の流川の顔を思いだせない。見ていなかったのかも知れない。たぶん、ふたりして前だけを見つめていた。ドキュメンタリー番組のBGMが、 よく聞いていたJ−POPのオーケストラバージョンだった。好きな曲だったのに、急速に興味を失うこともある。そんな思いに浸っている 仙道の肩を、どけとばかりに押す手がある。情緒に浸って、狭い玄関で突っ立ってせめぎ合いもないだろうけど。
「忘れ物? それともママと喧嘩でもしたかな」
 ようやく満面の笑みを浮かべることができた。つくり笑いは自分自身に自覚がないから、相手を包み込めるわけで、無理した分、胡散臭さは十二分 だろう。
「つまんねー挑発」
「あれ図星?」
「はぁ?」
「流川ったら、ウソつくときは鼻がピクピクうご――」
「んな、クセなんかねえよっ」
 言い終わる間もなく、押さえていた筈の手は外され、廊下にすっ転びそうになるくらいの力で押された。態勢を崩している間に、やすやすと流川に 侵入を許してしまった仙道だ。なんとか方向を変えて壁で躰を支え、惨事を避けた仙道がリビングに戻ると、 開け放っていたベランダへのサッシや窓を忌々しげな音を立てて閉めている流川の後ろ姿があった。
 振り返った形相の凄まじさに怖気づいて、仙道はちょっとだけ視線を外した。
「この寒いのに、なんで開けっ放し?」
「見りゃ、分かるだろうに」
 大掃除してんだよと、閉めてロックまで掛けた窓をもう一度開けようとすると、凄い勢いで阻まれた。ベランダへのサッシを背に、通せんぼでも しそうな子どもっぽさだ。
「おまえ、何しに来たわけ? オレは忙しいんだ。邪魔するなら帰れよ」
「別にたいして汚れてねーだろ」
「埃とか汚れとか、いろんなものに敢えて目をつむったら、流川にはそう見えるかもな」
「へっ。自称綺麗好きが毎日掃除機かけてるんじゃなかったのか」
 婉曲な嫌味は彼にはつうじないと分かっていても、言ってみたくなるのは性分だ。けれど返る言葉が余りにも的外れで、それが流川でありすぎて、 チリチリと焦げつく何かは、冷えた腹の底でさらに増殖して燻っている。
「それでもちょっとづつ溜まったもんを、さっぱりさせてお正月を迎えるのが日本人の心だろうが。さてはおまえ、家の大掃除イヤがってお袋さんに 叱られただろ」
「ねーよ。自分の部屋くらい自分でなんとかした」
「やれば出来る子ってわけか。ま、お袋さんの脅しが相当利いたんだろうけどな」
「るせー」
「他の場所は? 恵まれたその長身を生かして、窓とか手の届きそうにないとこ。年に一回くらいはおまえの存在理由をアピールしとけば?」
「親父がやってた」
「へぇ、珍しい。親父さん御在宅なんだ」
 出張が多いのか単身赴任なのか、口数の少ない少年から語られるキーワードじゃ不在気味であるのは間違いない流川の父だが、年末の大掃除 くらいは手伝うらしい。キリキリ働く流川母の指導のもと、寡黙(遺伝的想像)な父と子は黙々とノルマをこなす、なんてほのぼのした図を 思い浮かべて最初の疑問に行き当たった。
 じゃ、なんでこんな時間に戻ってくる?
 仙道はニヤリと口の端を上げ、テコでも動かない様相の流川を閉じ込める形で、掃除したばかりのサッシ窓に両手をついた。べったりとついた であろう指紋のことなんか気にならなかった。流川の片頬が強張るが後ろに逃げ場はないし、つくってもやらない。
「じゃ、アレか。急にオレが恋しくなって、やっぱ年に一度のおまえの誕生日はふたりでしっぽりと祝おうってことでオッケ?」
「てめーが誇る想像力っていつもその範囲だな。しかも合ってたことなんか一度もねーし」
「情報不足だからね。一番嬉しい可能性を提示したまでだ」
「あんた、結局なんも分かってない」
「それはお互いさまだな。流川、オレに分からせようって努力してないだろ?」
「なんでも万能ですって顔してるくせに」
「まさか、そんな大それたことを。いつだって知りたいって願ってるだけで」
 けっと吐き捨てて流川は仙道の視線を外した。
「さっき帰って、また来た。それだけのことだ」
 いちいち説明しなきゃならないのかと、逸らした視線を戻して流川は睨みつける。
 そういうんじゃないんだよ、と仙道はヘラリと笑った。
「聞かないからな、流川は」
「なにを……」
「なんでオレたちはいまこうしてるのか」
「はぁ?」
「オレたちはどこへ向かおうとしてるのか」
「熱でもあんのか」
「どう見たって機嫌の悪いおまえ相手に、欲情しちゃうオレってなんなのか」
「扱い辛い変態」
「その変態の巣窟にノコノコやってくるおまえは、オレになにを求めてるのか」
「なに問答だ、てめー」
「おまえにとってのオレってなんなの?」
「……」
「高校時代だけの、短い恋の思い出?」
「せん……」
 背中が粟立つくらいの低音で流川の内耳をなぶる。
「なんでおまえはなにも聞かないの?」
 そう言ってゆったりと口づけてきた仙道の冷えた躰を抱きしめる手は浮いたまま、流川は天井を見上げていた。



 口づけを解いた仙道の唇が耳朶を甘く噛んで鎖骨のくぼみをなぞる。また唇に戻り何度もそこに軌跡を残す。もどかしいくらいのペースで焦らせて 流川に根を上げさせようとする意地の悪い手管はなにも初めてじゃない。ただ抵抗する気になれないのだろう。けれど、浮いた両手が先に折れるのを 知っている。力を失くしシーツにぽとりと落としてから、そろりとその背をかき抱いてくるのだ。フっと漏れる呼気に舌うちが返る。抵抗のないのを 幸いに、とっとと上半身を裸に剥いて、寒いと訴える前にエアコンのリモコンを押した。
「なんに気ぃ取られてんのかなぁ」
 常々、暴れる流川を宥めすかして推し進める手順に萌えると豪語していた仙道だが、無抵抗なままの不気味さに戸惑うことはあっても探る手を休めたりしない。 流川の躰の隅々まで知り尽くした指先が、窮屈なジーンズの中で艶めかしく動いて一度目の解放を促した。きのう抱き合ったばかりなのに、これでは あまりにもこらえ性がなさ過ぎる。きっと思うところは別にあって、何かに気を取られて、簡単に屈してしまっても、流川には抗う術がないし、なんら プライドも傷つかない。
 呼吸が整うのも待たずにいつもの手順で身綺麗にし、ジーンズも下着も放り投げた。「チガウ」と出た言葉に「なにが?」と返す。 仙道はいつだって確信犯だ。流川の感情の機微に殊更敏感な男が、抱き合うこの距離で、口づけを落としながら、「なにが」もないだろう。強引に屈服 させながら言葉遊びを重ね、真意を吐きださせようとする。聞けば安心するでもないのに、と仙道は思う。あの日もいまも、 『なんで日本の大学にしたんだ』と、問われれば、どういう答えを用意しているのか。
 探ろうとする。深く深く。流川自身見知らぬ蓋をした領域にまで。躰だけじゃなく心の底まで繋ぎ止めたいと欲する。探りたいのは己の心情の方なのに、 流川だけを丸裸にしようとする。そして己の煮え切れなさを突き付けられるだけなのに、同じように見ていた未来が 枝分かれすると分かっているからなおのこと、仙道は流川に選び取らせたいのだ。
「てめーは、卑怯だ」
 腰を両腕で丸抱えして、仙道はシツコイくらいにへその周りに舌を這わせた。腹筋の流れに沿ってわき腹へと進むむず痒さだけで流川の中心が 頭をもたげてきた。こうなったときの仙道は妄執じみている。まだ爆発的な欲情に任せて抱く方が精神的に淡泊で清々しかったりした。なぜこんなときに、 なにかを引き出したいのか。言葉を。想いを。そして願いを。そんな仙道は流川の手に余ることだろう。
 だから卑怯だと言われても。
「おまえも日本の大学、選べばいいのに」
 思ってもみない言葉は流川には聞こえなかっただろう。つい転び出た真意に驚き、そして諦めて、激しくなる呼吸に合わせ己の欲望を押しつけた。 最奥を強引に攻められて流川の躰が跳ねた。一度ギリギリまで引きぬいて、さらに奥をえぐる。流川が悲鳴を飲み込む。さらに円を描いてかき回せば、 堪え切れずに零れた嬌声が仙道の胸をついた。
「っ、あぁ――」
「オレだけ、見てりゃいいのに」
 心と躰の両方をすり潰すように犯しても流川は流川であり続ける。どんな痴態を手に入れても、そんなもの、かなぐり捨てて前に進む。その事実が 哀しくも愛おしい。潤む目元に宿った殺意も、それを消し去る途切れがちな喘ぎも、息を吹きかけるだけで尖る乳首も、そして頑是ない矜持も。 手に入れたと勘違いしていたもの総てが。
 流川が何度も頭を振る。バラバラに散った黒髪が拒絶と許容を表す。腰骨が軋み、ひっきりなしに上がる喘ぎが喉を押し潰す。
 いつになく果てない仙道の欲に流川の躰が逃げを打った。それを強引に引きよせて推し進めれば、ぐにゃりと力が抜ける。もはや終焉の見えない 快楽は苦痛でしかないのだろう。喘ぎすら途切れた力ない躰をよじり重い腕を上げて仙道を引き離しにかかる。聞いてやるわけにはいかない。 けれどこれ以上押しつけるわけにもいかない。朦朧とした意識のなさを隠すように、流川は顔の前で腕をクロスさせている。それを外すと仙道は、 まだ猛りきっている己を引きぬいた。
「……せん……」
 戒めのような圧迫が解けて、詰めていた息を流川は吐き出した。驚いて見開かれた瞳の縁にひとつ。激しく上下する胸にふたつ口づけて、仙道は 流川の鼓動を聞く。トクトクと早鐘のように打つ流川の血肉。普遍であり続ける脈動。言葉に出来ない答えは、いつだってそこにあった。 出会う前からそこにあったのに。
 いまからこれでは先が思いやられる。その日が訪れるまでカウントダウンして過ごすつもりか。怖くて、なによりも自分が自分でいられなくなる。
 そんなのごめんだった。
 一度も達していない自分のことなどどうでもよかった。
 重い嘆息をひとつ。吐き出せたものなんかたかが知れているのだけれど。
「家、帰って、なんかあったのか?」
 捩れた感情をいつまでも抱え込んでいるわけにはいかない。互いの間に燻っているものをひとつひとつ解きほぐして、いまを大事にするしか 手がなかった。自分より幾分細い流川の躰を両手で抱いて、その胸に顔を置いたまま、ゆっくりと時間をかけて核心へと近づいてゆく。
「……」
「なんか、あったんだろ? 聞きたいんだよ」
「……帰ってきたから、親父に、言った」
「なにを」
「卒業したらアメリカへ行くって」
 少し驚いた。別に、でとおされるか、関係ねー、の蹴りでも入るかと思っていたのに、舞い戻ってきた理由を口にして仙道にこそ答えを求めている。
 この流川が。
 結果を仙道に突きつけている。
「親父さん、なんて?」
「びっくりしてた」
「いままで一度も卒業後の進路の話し、してなかったってこと?」
「うん。まぁ」
「そりゃ、びっくりもするだろ。けど、ものぐさもここまで来ると一種の様式美だな。で、なんて?」
「反対だって」
 へぇ、と仙道は感心した。なんとなく流川家にあっては息子の意思が最優先で、あり得ないレベルの理解を示しているイメージがあったからだ。 思えば人の親として当たり前の反応で、超高校級とはいえ、なんの後ろ盾もない一介の高校生がいきなりアメリカに行きたいでは反対されて当然なの だけれど。
「で、喧嘩になって飛び出してきた、と」
 流川はフルフルと頭を振った。
「難題、押し付けてきた」
「どんな?」
「全日本入り」



 一瞬ポカンとしたあと、仙道はクツクツと笑った。腹筋が震えるのは抑えられない。
 言った流川は、乗りかかったまま動きそうにない仙道を押しやろうとして気づき眉をひそめた。腰に当たる仙道の現状と、それにしては不可思議な 笑みを浮かべる男の心情とに。
「そりゃ、また大きく出たな」
 口の端を上げて仙道はさらに腰を密着させた。
 父曰く、たとえば流川の学業の方の成績が優秀で、アメリカの名だたる大学に進級したいというのであれば(ものすごくあり得ない喩えだが)喜んで留学費はだそう。 それは日本の学力レベルが世界に比肩して劣らないからで、それに比べいくら高校バスケ界でもてはやされていると言っても、所詮バスケ後進国。 アメリカの大学レベルに見合うだけの実力があるかどうか疑わしい――と。もちろん流川の口から発せられる単語をつなぎ合わせた想像でしかないが、 当たらずとも遠からずのはずで、年に一、二度あるかないかの親子対談はそこで椅子を蹴った息子によって中断された。
 なるほどねと仙道は腰に絡めていた腕を流川の頭に回し、額に口づけを落としてから横向きに抱き合えるよう躰をずらした。
「正論だけどな」
「どこに目標持ってきゃいいのか、分かんね」
「まぁな、おまえの目標だったインハイ優勝を手にすれば確定ってもんでもないし――」
 その後の展望はかなり能動的だ。全日本ジュニアは間違いないだろう。一年生で選ばれて今年も当然のようにそのユニフォームに袖をとおしていた。 しかしそこからA代表となると、ポジションに空きがあるかどうかと、監督の構想次第によるところが大きい。走れる2mは結構いる。彼らを押しのけて 高校生に門戸を開いてくれるかどうか。そこに期待するよりも去年今年同様、ジュニアの試合で成績と結果を残すしかない。けれど、意外とジュニアの 監督とA代表の監督の方向性が違ったりするからな。 現にジュニアで散々活躍したのに、一度も代表に選ばれていない選手もけっこういる。ってことはやっぱり構想ひとつか――
「あれ?」
 ツラツラと思い到って仙道は苦笑を隠しきれない。なんの作為もなく夢を馳せていた少年が第一の難関にブチ当たってザマみろの場面だけど、 その後の展開に手を焼いている流川になり替わって道を手繰ろうとしているのだから。『日本の大学選べばいい』なんて言って己の欲望を叩きつけて いたのはいったいだれだ。
「なにヘラヘラ笑ってやがんだっ」
 流川が腕の中でもがく。羽交い絞めに近いから逃れられないうえに、腰を押しつけてすり上げれば、抵抗はピタリと止んだ。
「目標はインハイ優勝でいいと思うよ」
 そう言って情愛のキス。まぶたに耳朶に頬にそして唇に。ゆったりと印を落として仙道は続ける。
「そのあと国体とウインター杯の三連覇。MVPと得点王。あらゆるタイトルを総なめにしてこそ日本一だ。おまえのプレイには華がある。スピードも テクニックも、いまでも大学でやっていける。なによりも人を惹きつけて止まない。それに勝負強さを付け足して文句なしの強さを見せつけてやれ。 そうなると全日本くらい軽い、軽い」
 難題でもなんでもない、と仙道は言い切った。
「おまえは日本一のケイジャーになる。親父さんだって納得する。それくらい引っ提げてアメリカへ行けばいい」
「……あんたには、まだ、勝ってないのに」
 仙道のいない日本で仙道には勝てないまま、日本一になってアメリカへ。それでは去年の安西との約束を果たしていないと流川は考えている。 安西が言ったとされる言葉。あれは流川に明確な目標を定めさせるためというより、遠くまで流離っていた視線を身近に向けさせる意味があった、 と思う。そしてその対象が赤木でも牧でもなく仙道だったという事実。
 改めて身にしみた。
――安西先生はオレの中のなにを見つけて流川をぶつけようとしたんだろ
 埋まらない空洞を抱えた飢えたもの同士。
 あれは仙道をも引き上げる楔だったのか。その楔が引き抜かれるとき、自分はどうすればいいのだろう。
「オレとお前じゃタイプが違うから、勝った負けたはないと思うけどね」
 一度も負けたとは思っていないから口にできる言葉。
「これ以上オレに拘る必要はないよ。おまえの未来にはオレなんか足元にも及ばない強敵が並んでんだから」
 言い切って嫌悪感と反発心が沸き起こる。流川の体温が上がる。自分の鼓動はそれ以上だ。
「そうだな」
 分かり切っていた言葉と事実に恐れ慄く。自分で切って捨てておきながら、衝撃を受けている。なにに? 流川の迷いのなさに。
 唐突に。
「愛してるよ」
 と、言葉がまろび出た。流川の頭を胸に抱き込んで言うものだから、届けようという気持ちのなさに笑いがでた。さらになんて陳腐で上っ面を なぞるでしかない言葉なんだろ。一体だれに対しての。流川に向けた告白ではない。自分が確認したかっただけなのか。
「……んなん、いらねーよ」
 当然、密着し過ぎて流川の表情は分からなかった。くぐもった言葉は仙道の胸あたりにある。
 オレは――と仙道は思った。
 気まぐれにバスケを始めてみた。適度に頑張ったら強豪私立からお誘いがきた。結構頑張ったら天才の称号を頂いた。そのバスケで大学へ行く。 インハイ。インカレ。社会人。そして全日本。きっとさまざまな舞台が仙道を待っている。流川のように一足飛びに夢を語らないだけで、その延長線上に あるアメリカならば仙道だって迷わないだろう。いつかと願うか、いまと欲するか。両者の間に横たわるのは温度差だけじゃない。
「あんたってほんとに卑怯だな」
 それでも流川が顔をあげようとする。抑えつけても抑えつけても、反発して仙道の目を覗きこんできた。
「そうだな」
「だから、オレが先に行く。あんたは後からくればいい」
「なんだって?」
「ひとつ分かったことがある」
 流川の声は硬いが明瞭だ。
「あんたは臆病で卑怯だからひとりはイヤなんだろ。言葉の壁とか生活習慣とかレベルとか、そんなん後付けの理由だ」
 へぇ、と感心したふうの声は流川のそれよりも硬かった。言葉の接ぎ穂を探して取り繕う。常識とか理性とか現実とか、仙道を取り巻く総てのものを 総動員して鼻で笑う。もう少し現実を見極めようよ、と言って抱きしめたら流川の中の仙道は崩れる。この恋は終わる。一瞬でもそう感じて衝撃がきた。
 オレは、いつからこんな考え方をするようになったんだろう。
 いつから流川を中心に動くようになったんだろう。
「あんた、大学生とくらいじゃ劣んねーって思ってる」
「そりゃ、ま」
「だったらなんも問題ねーだろ。なのに尻込みするわけは、捨てなきゃなんねーもんが多すぎるからだ」
 仙道は目をぱちくりとさせた。驚いたなんてもんではない。
「そんなふうに見える?」
「見えた」
「オレの気持、読んでくれたんだ?」
 流川が厭そうに身じろいだ。
「なんでそうなる。ただ、そー思っただけだ」
「ま、オレですら理解できないこのモヤモヤをさ、尻込みのひと言で片をつけないで欲しいけどな」
「知るか」
 言い捨てると流川は、これ以上の繰り言は遮断とばかりに仙道の背中を両手で抱き、その胸に顔を埋めてきた。最良のポジションを探し出すと、 頭を預けてくる。完全に寝入る態勢だ。
「ハラ、減った。なんかつくっとけ」
 と、続く言葉はニベもない。出来たら起こせってことだろうけど、いまからつくってほんの十数分。寝入りばなを起こす勇気はいまだにない。 全然言い足りないし聞き足りない。宙に浮いていた想いは消化不良のままだ。だいたい、流川の言う捨てなきゃならないものの成就だって 平穏な道じゃないと知っているのか。後先考えられない子どもに切り捨てられる謂われはない。と、ツラツラ思っていたら、イラつくほどの健やかな 寝息が聞こえてきた。
「オレに追いかけて来いって?」
 顔を覗き込むと、踏んづけてやりたいほどの健やかさだ。
「違うか」
 流川は目標が明確じゃないと動けないと言っている。そして動くに理由は必要ないと。
 見失う。迷う。臆する。流川が手にして仙道の手から零れそうなもの。エゴイズム。
 ちょっと待てと声に出してみた。おまえが寝るならオレも寝る。
 そんな理屈、どうやったらつうじるんだと仙道は、躰をずらし流川の頭を抱える安眠ポジションを確保して呼吸を重なり合わせて行った。




end








明けましておめでとうございます。
一日の誕生日に、間に合いました。って、これ実は去年の誕生日にアプする予定だったのが、遅れに遅れて、いまさら 出せないわで温めてたお話です。温め過ぎて全然違うラストになるのはよくあることなのでした。